あの蒼穹の向こう側へ
 澄んだ青い空、真っ白な雲。
 果てまで続いているような広い広い草原と穏やかに吹く風。
 樹木も数えるほどしか立っていない絵に描いたような場所に、一輪の白い花が咲いていた。
 花は、毎日違う雲や風と話すことが一番の楽しみだった。
 生まれてから動くということを知らない花にとって、ここから遠く離れた地から流れてくる雲や風は最高の話し相手だったのだ。
 その花に違う楽しみが出来たのは、つい最近のこと。

 花の葉の裏に隠れるようにしてあったのは、蝶のさなぎ。
 自ら動くことが出来ないものたちが集まったこの場所に、ひとつの命が生まれようとしていた。

 ある日、さなぎの背に割れ目が入った。
 もうすぐ生まれる・・・・と誰もが思った瞬間。隙間から、真っ白な蝶の羽を持った少年が生まれてきた。
 まるで妖精のような容姿をした少年は、自らを守っていた抜け殻を身に纏い、自分より何倍も背が高い草花が生い茂る地へ降り立った。

 生き物に本来あるべき親が生まれながらにしていない少年は、自ら見て聞いて体験していかなければならない。右も左も分からず、自分と同じ姿をしたものも周りにはいない。
 さなぎから還ったらその瞬間から羽ばたく、蝶として生を受けた筈の少年は、不安や恐れ、迷いなどの感情が入り混じり、空腹を満たす時以外にその羽を動かすことはなく、自分が生まれた花の傍から離れようとしなかった。

 心を失くしてしまったかのように、ただ空を眺めているだけの少年。
 花たちが話しかけても、首を縦か横に動かすことしかしない。

 このままでは、折角この世界に生まれてきたのに、この世界を飛べる羽を持って生まれてきたのに、動かず又飛ぶこともなく朽ちてしまう。
 見かねた花は、ただ話しかけるだけではなく、身の上話をすることにした。


 元々この地にひとりぼっちだった花。
 流れてきた雲や風に聞いた話で初めて、こことは違う地を知った。
 そして芽生えた叶わぬ思い。

 『この雲や風たちが見てきた地を見てみたい。』

 花に叶えることが出来ずとも、この少年には叶えることが出来る。自分には叶わない思いを叶えて欲しい、そう言った。
 世界にはいろんなものがある。嬉しいと思うことも、哀しいと思うことも、楽しいと思うことも、辛いと思うことだってある。自分ではそれを見ることも感じることも叶わない。でも貴方にはそれを叶えることが出来るのだとも言った。


 始めは耳を傾けようともしなかった少年は、日々繰り返される花の話を少しずつ聞くようになり、やがて花のように雲や風の話を聞くようになった。
 心が失くなりかけていた少年は、失くした部分を取り戻すように、毎日いろんな話をした。聞いて、問うて、花の近くを飛び回るようになったりもした。

 やがて口にされた少年の言葉。

 『世界を、見てみたいと思ったことはあるんだ。
    だけど怖かった。ここを離れていくことも、何よりひとりになることが・・』

 ここを離れて必ずしもひとりになるとは限らない。いろんなものと出会うし、中には少年と心を通わせることが出来る相手も見つかるかもしれない。
 だが、知らない地へ自分の意思で行くということは、慣れ親しんだ地を離れるということであり、生まれたその時に自分と同じ姿をしたものたちがいなかった少年がそう思っても無理はなかった。
 自分の中に確かな思いがあったとしても、知らない地を目指すよりこの地にいたほうが安心出来る。生まれてから今までと変わらない日々のほうが、不安になったり恐怖に駆られたりすることはない。

 しかし、少年の目は着実に前を向き始めている。怯えて何かを聞こうとも見ようともしなかった少年の目は、世界を目指し始めている。
 花は、日々変わっていく少年の目を見ることが嬉しくて、少年が世界を見に行くと言い出したときには心から喜んだ。


 少年が旅立つ日。
 花は最後に少年に言った。

 『後ろ向きになったり、どうしようもなく寂しくなったときにはここに戻っておいで。』

 ・・と。
 既に花に背を向けていた少年は、振り向いて笑顔で頷いた。


 少年が生まれる前と同じ状態になった地で、花は旅立った少年の帰ってくる場所となるため、いつまでも枯れることなく咲き続けた。
 少年はそれから花の元へ戻ってくることはあってもまた旅立っていっている。